音楽にはとてつもない遅効性の力もありますし(ワタシは、チャーリーパーカーが本当に効くまで20年ほどかかりました)、何よりも偏在性があります。
偏在性はユビキュタスと言いますので検索して頂ければご理解頂けると思いますが、ワタシは報道の総体から偏在性を強く感じます。
愛する家族を手をつないで逃げたのに、自分だけが助かってしまった老人も、何千もの水死体であり礫死体であるような肉と骨の山を目撃してしまった幼児も、一瞬で粉微塵になってしまった人も、何日ももがき苦しんで死んだ人も、よく出来たカフェオウレを飲んでため息をついていた人も、角ハイボールの18杯目でゲラゲラ笑いながら飲んでいた人も、すべてが偏在であり、つまりはワタシの一部であり、誰かの一部であり、全体を構成しているのです。
そうでないと、どうしてあの人は助かったのにオレは助からなかったのか?という問いに対する答えが、運命論だけに収斂されてしまう。運命は別個に存在しますが、偏在性とはまったく次元が異なります。
音楽は偏在性を強く示す営みで、時空を超えます。
母親の鼻歌まじりの子守唄は、その時のその子にだけ届いているのではない。1974年のハードロックは、レコードによる再生などとは別に、当時のワタシではないワタシに届いています。
いますぐ机を叩き、口笛をお吹きになるがよい。
そこに誰もいなくとも、音楽は偏在性と共に、飛行に似た運動を起こします。
すなわち無人島に咲く花の美は実存する。
この実感を、ワタシはほとんど音楽だけから得たので、非常に教養のあり方が偏っていると思っていますし、この実感を巡るやりとりの中で、物語という概念が生まれ、調性という概念が産まれたと思っています。どちらも内部に、偏在性の否定もしくは未知を抱え込んでいます。
本日もまた不謹慎を承知で書きますが、現在のテレビ中継、そして中継されている惨状の連鎖は、終末モノと呼ばれる、CGを駆使した、ハイバジェットなハリウッド映画のようだ。
これは偏在性の拒否であり、音楽と根本的に対立しうる物です。