外はハリボテ、内はベニヤの”原子力ムラ”

飯田 私は、原子力ムラを「東映太秦映画村」とたとえています。原子力ムラは、表面はキレイにお化粧して、あたかも日本の原子力技術は世界最先端のハイテク国家のように見せかけているけれど、裏に回るとベニヤ板のハリボテが実態なのです。私は原子力ムラの内側の仕事もしていたので、そう断言できます。

小林 原子力ムラの内側というのは?

飯田 原子力安全委員会のもとで原子力の技術基準づくりの仕事や、電気事業連合会の裏側の仕事も少しですがやっていたんです。

飯田 原子力のキモの部分は、国の安全審査です。
今回のような色々な事態が起きても安全であることを計算上でいろいろとシミュレーションします。神戸製鋼から電力中央研究所というところに出向派遣で行きました。

そこは電力会社の売上の0.2%が寄附で、およそ二百億円規模の予算で運営されている研究所ですが、ここには2つの側面があります。寄付で運営される財団法人なので、タテマエ上は「中立」という顔で、国の安全審査の委員もやっています。でも実態は、電力会社のお金ですから電力会社に奉仕する研究所という、もう一つの顔があります。理事長などは、みんな多くは電力会社からきていましたから。

その前半の側面で、原子力安全委員会のもとで新しい安全技術基準を作るという仕事に携わりました。
私はそのころまだ20代の下っ端でしたから、最初はカバン持ちと議事録取りくらいから始めたんですけれど、議事録を取っているうちに、大学の先生や企業の技術者など委員の人たちが、政策や国際基準の背景をまったく勉強していないと感じたんです。それで、国際基準の背景やそれを日本に取り入れた過去の経緯や事情などを全部勉強して、すべての情報を頭に入れているうちに、私がその分野の生き字引みたいになったことがあります。最後は、原子力安全委員会からの答申文書も私が書いたこともありました(笑)。

その経験を通して、原子力の官僚がどういうマインドや思考方法で仕事をしているのかというのが分かりました。もちろん真面目なんですけれど、彼らの考え方というのは、本当の安全性というよりも、法律の条文の字面をどう合わせるか、なんですね。霞が関文学を駆使した、いわば「文学的安全性」とも言えます。たとえば、マスコミや反対派に突っ込まれないか?という視点で、字面をチェックするだけ。だから今回の事故でも、本当に津波の高さはこの設定で大丈夫なのか、とか津波が来て電源が失われたらどういう安全性を担保できるのか、ということを彼らは真剣に追求したわけではないのです。

それからすべてのキャリアを絶ち切って、スウェーデンに行ったんです。
当時のスウェーデンは、原子力で50%の電力をまかないながら、脱原発の方向で進むことを国民が決めていた。そこに行けば、自分のやれることが見つかるんじゃないかと思ったんです。ちょうど、リオ地球サミットのちょっと前でしたけれど。来年2012年に「リオ+20」という地球サミットが開かれますよね、その原点となるリオサミットの前です。

小林 ああ。何年でしたっけ?

飯田 1992年です。そのちょっと前から90年代にかけてスウェーデンに何度か渡ったんですが、それは私にとって圧倒的な衝撃を受けた体験でした。

言葉尻さえ合わせておけばいいという日本の原子力ムラの文化とは、まるで違っていたのです。「原発推進・反対」という二項対立の議論は、1980年の国民投票ですっかり卒業していて。原子力はこれ以上増やさないという大きな合意のもとで、あとは現実的な核のゴミをどうしていくかであるとか、安全性を実質的にどう高めるのかという課題を、推進も反対もなく、極めて実質的にやっていたことに、軽いショックを受けました。

それ以上に、圧倒的に衝撃を受けたのはエネルギーを民主主義で決めていく、さまざまな地域社会の取り組みですね。私は『北欧のエネルギーデモクラシー』(2000年、新評論)という著書でも書いたんですが、地域にエネルギー会社があって、みんなで参加し議論しながらバイオマスで自然エネルギー100%を目指すコミュニティとか。